(6)まさよしの「家族洗礼」再帰(さいき)の起点

   家庭洗礼

(9年後の視点)
このページを作成したのは、 キリスト教会の説明書を作り始めたころで、およそ9年前になる。当時のわたしの、 キリスト教会についての視野は、ほんとうに狭いものだった。そのわたしに、 「キリスト教会説明書」作成事業責任者の役職が与えられたのだった。「仕事」ではなく「役職」とするのは、この事業が、自分の裁量に委ねられているとの自覚からである。

そのころのわたしは、ローマ・カトリック教会を全く知らなかった。「キリシタン」という、一般の日本人にとって、負のイメージに、それは関連付けられており、意識的に忌避(きひ)していたのかもしれなかった。しかし、作業が継続される過程の中で、ローマ教会こそは唯一の教会であり、聖母マリヤの愛に輝いているのだと悟った。

ローマ教会の歴史は、異端すなわち「分裂勢力」との戦いであったことを知った。天地創造は、「小さなものがくっつきあって大きくなる」ことによって地が生じ、天と分けられたことを教える。プロテスタントは、分裂のDNAを持ち、際限なく分裂する。分裂は天地創造の逆であり、「人為」に他ならない。しかもその分裂は、信徒のためを思ってではなく、リーダーたちの意向によるものなのだ。気に入らなかったら、「はい、さよなら」なのだ。

ささくら家の「家庭洗礼」はまさにこれの極(きわ)みだったことを知る。やったこと自体は「神聖」な行為だと思うし、そのやり方を紹介してもいる。なぜそうしたのかは、なぜ「いろんな思惑の教会」があるのかという疑問に尽きる。なぜ、同じ キリスト教徒同士が、信者を囲いあったり、反目したりする。

そしてわたしは、自分のした「家庭洗礼」を分裂の極限とし、再帰するための起点と認識するに至ったのである。わたしの意図する再帰とは、呼び出す関数に自分自身を与えるもので、実行すると、次々に自分を呼び出すが、その関数に定まった値が代入されると、次々に戻っていき、ついに呼び出した式に値が返される、というものである。わたしを呼び出された方がどなたなのかは知る由(よし)もないが、今のわたしには聖母マリヤの聖なる愛に光り輝くローマ教会が見える。

そういうわけだけれども、以下の記事を削除するにはあたらない、とも思うので、以上の註を付加した上で、そのまま残す。
 
本文
 
洗礼とは  「洗礼を受けた」は、何か大きな試練を受けた、という意味で使われることがあります。キリスト教の洗礼は、イエスの宣教開始に先立って世に姿を現した、洗礼者ヨハネに始まります。ヨハネは、ヨルダン川で、「悔い改めよ」と叫んで、人々に水をかけ、罪を洗う儀式をしました。イエスもまた、ご自身を世に現すに先立ってヨハネから洗礼を受けられました。
ルカ3-21さて、民衆がみなバブテスマを受けたとき、イエスもバブテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、3-22聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

現在キリスト教の洗礼には、頭に水を数滴かけるだけのものから、どっぷりと水に浸すものまで、さまざまな形式があります。洗礼の形式は、教団や教会ごとに決められています。キリスト教会において、洗礼は最も神聖な儀式です。
ローマ6-4「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバブテスマによって、彼と共に葬られたのである」。

洗礼のエピソード
1.百卒長コルネリオの洗礼(ペテロ) 使徒行伝10-1
2.エチオピヤの宦官の洗礼(ピリポ) 使徒行伝8-26
3.ピリピの獄吏一家の洗礼(パウロ) 使徒行伝16-30

パウロの手紙
1.バブテスマ「彼の死にあずかるバブテスマ」 ローマ人への手紙6-3-5
2.信仰告白「信じて義とされ、口で告白して救われる」 ローマ人への手紙10-9
3.死人の復活「どんなふうにして死人がよみがえるのか」 コリント人への第一の手紙15-35
 
浸かる洗礼  一番手間のかかる洗礼は、どっぷり水に浸ける洗礼です。この洗礼の意味は、キリストの死と復活にあやかることです。会衆の前で、イエスをキリストと告白した後、牧者の手によって仰向けに水に浸けられ、数秒おいて起こされます。教会によっては、このための設備が、牧師の説教台の下にあります。この洗礼方法は、福音的バブテスト系教会などが採用しています。
 
場合によっては、これを大空の下で、河で、海岸で行う場合があります。そのときは、キリスト教の神の尺度の大きさを実感できます。

コロサイ2-12「あなたがたはバブテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」。

 

 
情報化社会の洗礼  情報化社会は、地域の付き合いの希薄を加速させます。商店街が寂れていますが、これは量販店、スーパー、24時間営業のコンビニの進出だけによるのではありません。客がお店との濃厚な関係を望まなくなっているのです。キリスト教が伸びない原因のひとつには洗礼の敷居が高すぎると感じることがあるでしょう。信者同士の濃厚な関係を望まなくなっています。洗礼が信者と未信者の壁を作っているのならば、その意味から考え直す必要があります。
家庭洗礼  なんらかの都合で、教団やキリスト教会に属していない群れが行う、一つの洗礼の形態です。イエスをキリストと信じる家族は、イエスに従う群れの最小単位です。笹倉キリスト教会は、情報化社会での洗礼のありかたをここから考えます。
 
洗礼の時期  教団によっては、本人の意思とは関係なく、赤ん坊の時に洗礼してしまうものもあります。しかし、福音的教会では、洗礼の前には本人の意思確認が必須です。すなわち、イエスがキリストであることを信じる旨の告白が必要です。また、立ち会った会衆にむかって、信仰の証をします。
 
初めてキリスト教に接する人に、いきなり洗礼したりはしません。教会の礼拝を通して、また、聖書の学びを通して、イエスこそは救主であるとの確信ができるまで、待ちます。生まれた環境が福音的キリスト教徒の家庭で、家族と共に聖書を読み、賛美や祈りのうちに育った者は別です。
 
福音的家庭の家族洗礼は、子供の場合、思春期に入る前が良いでしょう。彼らの多くは神の国におり、キリストへの理解が単純で、明快です。思春期に入ると、複雑になります。洗礼を受けた子供も、思春期以降は自我が芽生え、ひとたび神の国を離れることがあります。しかし、そこは「信仰と希望と愛」の旗の下に、家族が集った心の故郷です。時を越えて、戻ることのできる場所です。牧者による、彼らへの一番の贈り物は、故郷です。
 
ささくら家の場合  幼児の頃から、子供を家庭礼拝に参加させていた。子供たちが小学生の高学年になり、親子の関係が次の段階になっていく気配があった。迷いはあったが、夏休みを利用して、逐次三人の洗礼をすることにした。ままごとなのか、それとも何かしらのプロトタイプになるのか、それはわからなかった。結果として、一年毎に行った三回の洗礼式は、スケジュールにおいても健康面においても何の支障もなく、無事故で完了した。ただ、洗礼旅行の計画に先立ち、「無事に終わりました時には教会に、○○円の献金に参ります」、と祈った。そのため、洗礼式の完了は、次の日曜日に近所の教会で献金を済ませた時だった。その時に、はじめて安堵した。
 
場所の例  家庭では、設備が無いので、室内ではできない。海や川が良い。夏休みなどを利用すると、家族全員で行けて良い。誰もいない早朝に行うと良い。

1.若狭和田海水浴場
  遠浅の海水浴場で、幼児でも安心。

2.竜神温泉の日高川、国民宿舎の下

3.香住海水浴場
  比較的遠浅で、幼児でも安心。

  佐津の訓谷の海岸は、すぐ深くなり、子供には
  不向き。

洗礼(A)  平成6年8月3日、夏休みを利用して第一回目の洗礼旅行をした。会社が保養所として契約していた福井県若狭和田の民宿に泊まった。礼拝は、すぐ近くの浜辺で行い、宿に戻って礼拝をした。朝、5時ごろの海水浴場には、誰もいなかった。洗礼のあかしは、各自自由にワープロしてもらい、それをメッセージにコピーした。

「イエスをキリストと信じる」という告白があればそれでいいが、三人ともそれなりのあかしを書いて、洗礼式でそれを読み上げた。

洗礼式次第A
洗礼式聖句A
メッセージ「我らを持ち運ぶ神」
洗礼のあかしA
洗礼(B)
小学6年生
平成7年8月3日、昨年に続き、夏休みを利用して第二回目の洗礼旅行をした。場所は、奈良県竜神村の国民宿舎。その下に、川があった。大阪市の泉南メモリアルパーク、高野山を経由して龍神村に着いた。
洗礼式次第B
洗礼式聖句B
メッセージ「主にある家族の絆」
洗礼のあかしB
洗礼のあとで礼拝をした。Bに記念品を渡したら、Cがうらやましそうにした。なんでも同じでないと気がすまない。君は来年だよ、と言い聞かせた。

(記念品の価値がわからないうちは、学校で見せびらかしたりすることのないように、親が預かる配慮も必要。富については秘密が必要な場合があることも教える)。
洗礼(C)
小学6年生
一年はすぐにたち、Cの洗礼の時がきた。朝、国民宿舎「ファミリーイン今子浦」をでたが、香住海水浴場まではいけず、途中の佐津海水浴場を洗礼の舞台にした。

洗礼式次第C
洗礼式聖句C
メッセージ「マリヤの従順と沈黙」
洗礼のあかしC
ぷかぷか浮いているだけの母子。私の目は、「幸せ」をみていた。他に水泳客がいないのは、朝の5時過ぎだから。
完了 三年かけて三人の洗礼が終わった。障害はなにも起こらなかった。三回目の洗礼旅行から無事に帰着し、近くの教会で献金を済ませて、すべてが終わった。

この後、年一回の旅行に「***聖会」というタイトルを付けて、聖書と聖歌のひと時があるようにした。
洗礼の多様性 日本にはキリスト教の土台と文化が無い。日本人の心をとらえるキリスト教の精神的土台を築く必要はないのだろうか。それができれば、その上に建築、芸術、文学らの花が咲き、日本的キリスト教の文化ができる。かつては、西洋は「罪」の文化、日本は「恥」の文化と形容された。若い人々よ。あなた方がイエスをキリストと信じるなら、家族で聖書を読み、子供が小学5、6年になったら、信仰告白ができることを確認した上で、洗礼をしてみなさい。しかし、今の時代には、隠れて行いなさい。神にのみ知られれば良く、人に知られる必要はない。み言葉の「み国」と、パンの「この世」を使い分けなさい。そして、イエスに従いなさい。あなたの才能を磨き、神と、世に仕えなさい。


戻る

2010/06/01(C)笹倉キリスト教会、笹倉正義
引用聖句:日本聖書協会 口語訳聖書

Copyright (C) All right reserved 2010 by The SasakuraChristChurch、ORIGINAL CHRIST CHURCH
2010/09/20、2011/5/4
2019/1/27(冒頭に「9年後の視点」を付加した)、2019/2/28
2020/6/3(戻る)