キリスト教の眺望 一般に才能というものは、せいぜい40代までの、若いときに発揮され、世に認められるのではないだろうか。わたしの場合、もうすぐ日が暮れるという年代に達して、ふとキリスト教の取説作成に関連して、その才能を発揮したというものでもなく、導かれて、自分が予想もしなかった境地というか、眺望地点に達したのだった。 インターネット時代の恩恵 それにはインターネットのインフラ環境の普及が幸いした。サイトに最初のページを作ったら、次々にそれにリンクするページを作成すればよく、ページはいつでも修正可能であり、それを公開すれば、誰でも途中経過を閲覧することができる。この利便性は紙の本の及ぶところではない。 ページ上の知識は累積され、ある時点で、別のステージに移ることがある。「修正が当然」という前提なので、そのようなことが可能になる。 「まさよし」の存在 わたしには、家系というものがない。正雄の先は知らない。だから、「正雄の子、正義」なのである。たぶん、自慢できる家系ではないので、ただの民草(たみぐさ)なので、家系に関心がないのだろう。そして、すべてのことにおいて、自慢できる環境はないが、それでもそこそこ、めぐまれた日々があったと、感謝できる。 この歳になって思うことは、「信仰」は決して無駄ではないということである。信仰は、折に触れて、「あやうさ」から回避させてくれたと思うのである。若いときに、信仰を持つことは、けっこうなことである。 キリスト教の そして、信仰の「具体化」をどうするかが、ここでの提言である。そしてその提言は、「苦杯と十字架」による個々人の「狂気」のあがない、つまり解消、消去、であり、「復活」はそれが2000年前の話ではなく、今として有効であるということに尽きる。 さらに、もうちょっと踏み込むならば、それの具現はカトリック教会のミサに集うということなのである。愚直なカトリック教徒による「聖母子」信仰、それが自らの「取説」の最終形である。膨大なページは、これらを修飾しているだけである。 |
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