「取説」の受注者、正雄(まさお)の子、正義(まさよし)

キリスト教の眺望
一般に才能というものは、せいぜい40代までの、若いときに発揮され、世に認められるのではないだろうか。わたしの場合、もうすぐ日が暮れるという年代に達して、ふとキリスト教の取説作成に関連して、その才能を発揮したというものでもなく、導かれて、自分が予想もしなかった境地というか、眺望地点に達したのだった。

インターネット時代の恩恵
それにはインターネットのインフラ環境の普及が幸いした。サイトに最初のページを作ったら、次々にそれにリンクするページを作成すればよく、ページはいつでも修正可能であり、それを公開すれば、誰でも途中経過を閲覧することができる。この利便性は紙の本の及ぶところではない。

ページ上の知識は累積され、ある時点で、別のステージに移ることがある。「修正が当然」という前提なので、そのようなことが可能になる。

「まさよし」の存在
わたしには、家系というものがない。正雄の先は知らない。だから、「正雄の子、正義」なのである。たぶん、自慢できる家系ではないので、ただの民草(たみぐさ)なので、家系に関心がないのだろう。そして、すべてのことにおいて、自慢できる環境はないが、それでもそこそこ、めぐまれた日々があったと、感謝できる。

この歳になって思うことは、「信仰」は決して無駄ではないということである。信仰は、折に触れて、「あやうさ」から回避させてくれたと思うのである。若いときに、信仰を持つことは、けっこうなことである。

キリスト教の御利益(ごりやく)、「子よ、あなたの罪はゆるされた」
そして、信仰の「具体化」をどうするかが、ここでの提言である。そしてその提言は、「苦杯と十字架」による個々人の「狂気」のあがない、つまり解消、消去、であり、「復活」はそれが2000年前の話ではなく、今として有効であるということに尽きる。

さらに、もうちょっと踏み込むならば、それの具現はカトリック教会のミサに集うということなのである。愚直なカトリック教徒による「聖母子」信仰、それが自らの「取説」の最終形である。膨大なページは、これらを修飾しているだけである。
 
 
笹倉家の「れんごく」
 
「まさよしの場合」自分に読む物語
生前整理から始めた「わたしのもう半分」
 
「ささくら修道会」創設への思い
 
 
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オリジナル教会の権能:「あなたの思うがままに作成してよい」
拝受者: (ささくら宗)聖母マリヤ福音教会代表 笹倉正義
通称:オリジナル教会
2021/3/19、22、5/4(作者->受注者)、2021/9/30
 
(ささくら修道会規約)当会の用いる聖書は、口語訳聖書または文語体聖書に限られる。例外として、バルバロ聖書差分を、正式文書に加える。これ以外の、聖書の引用は厳禁される。日本語以外の聖書については、文語体聖書の内容に準じるものとする。異端文例(Today's English Version)世事に迎合した改編文章など異端以外の何ものでもない。(異端:=故意に対立すること)
 
聖句引用:日本聖書協会 口語訳聖書
新約聖書(1954年改訳)

旧約聖書(1955年改訳)

バルバロ聖書(旧約差分)
 
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