(4)まつりさま

「ルカによる福音書」 臨終の言葉
23-43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。23-44時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。23-45そして聖所の幕がまん中から裂けた。23-46そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。

(1)イエスは人の姿であったので、いつどのようなことで命をおとすか知れたものではなかった。しかし、イエスは、超偶然という必然のなかを、さまざまな危機をこえて、天寿ではなかったが、自らの命(いのち)をまっとうされた。同時にそれは地上のアロン家が永遠のアロン家へと昇華するに至ったのであり、「苦杯と十字架」による狂気のあがないが世々に個々人に及ぶことになったのである。それこそが「福音」なのである。そのためには、ご聖母であるマリヤさまの存在が、これもまたその必然のひとつだったのだと、いまのわたしには信じられる。(続きは目次の下)
 
目次
 
「2011年の元日」     dのこと
    「聞書き」の冊子      まつりさまの最初
(1)オミズクダサイ 
冷蔵庫から大根をとりだし、おろし器でおろす。小鉢ふたつと碗をひとつセットする。
(2)お言葉の背景 
この状態を放置すれば、大人になっても言葉が出せないことになる
(3)まつりさまは象徴 
まつりさまの障がいは、わたしの神に対する障がいを象徴するものと言える。
(4)二人のルナ 
彼女が満月だとすれば、まつりさまは新月の状態だと形容できるかもしれない。
(5)霊的障がい者 
この世に捨てられた者こそ、神の国を継ぐという、神の奥義が示されていました。
(6)ゆすらうめ 
ユスラウメ、植えたときは十数センチの棒だった。最初に葉が出たときは感動だった。
(7)スイカクダサイ 
このごろはスーパーでスイカを買うときはサイコロ状に加工された容器入り
(8)セラピスト 
セラピストによるまつりさまのトレーニングが基本であり、ひと月およそ6万円必要。
(9)墓じまい 
封建制度から続く「家」という社会通念が崩壊した今、先祖代々の墓は必要ない。
(10)秋の運動会 
雨で一日延期された幼稚園の運動会は、まぶしい日光の下で行われた。
(11)イメージ「若さの残る母の顔が」
男の臨終が近いと思われた。彼は、「ま・さ・よ・し」と呼びかける声を聞いたように思って、目を開いた。彼は、まだ若さの残る母の顔が、自分の顔をのぞきこんでいるのを見た。「帰ってご飯たべよか」と、母は言った。
(12)イメージ「単発機のゆくえ」
一機の単発機が広い海原(うなばら)を飛んでいた。海はキリスト教の説明書だ。旧式のそれは、果てしもない海の上を飛行しているのだった。来る日も来る日も、それは飛び続けた。休もうにも休む陸地が見えないのだった。ある日、その機影は、海上から消えていた。
(13)イメージ「単発機のゆくえ(2)」
海の上を飛んでいると自覚してから、9年たった。漠としていた行き先が、ぼんやりとイメージできるようになった。それは聖母マリヤの「聖なる愛の光」に導かれていると感じ始めたからだった。「キリスト教説明書」の作成に着手した時の、最初の疑問は、「ルカによる福音書」だけに書かれている、書の献呈の言葉にある「テオピロ」とは誰かだった。
(14)まつりさまのおばあちゃん
彼女は紹介状の返事を求めたのだった。しかし、覚えがないのでその旨つたえたが、それは翌日届けられていた。一度、誤配されたものらしかった。順序を重んじるわたしは、彼女と会うことにした。彼女は、さいしょ、高野山にきた。挙式の翌日、メモリアルパークにきた。鉄鋼短大にもきた。それまで、閉じられていた扉が次々と、彼女のまえに開かれた。
(15)ライフ・メモリアル
アルバムは、わたし自身の記憶であり、人にはなんら値打ちのないものだと思う。そして二つの袋に分けて残した彼女の写真はわたしの棺(ひつぎ)に入れて焼却、彼女と子供の写真は彼女の棺とともに焼却する。彼女もこの提案に異存はなく、この正月休みから二人で作業を開始した。
(16)まつさまのおじいちゃん
まつりさまが、これからどのように成長されるのか、それはわたしにはわからない。すべては、神さまの御手のうちにある。願わくば、彼女の心がマリヤさまに向けられる時が来ますようにと祈る。今は、まったくその環境のないところでお育ちである。ためにわたしはマリヤさまに、イエス・キリストへのおとりなしを乞い、深く祈る。「アーメン」。
(17)その後のまつりさま
えつこの誕生日に、まつりさまもやってこられた。オードブル準備中の皿が並んでいるのを見て、まつりさまは着席された。しかし、まだ食べてはいけないと言われて、さめざめと、きれいな声で、涙をぽろぽろ流してお泣きになった。目の前の自分の席に食べ物があるのに食べられない、それはまつりさまにとって、とても悲しいことなのだった。
(18)フェイス・タイムのまつりさま
それはスマホのアプリの名前らしい。スマホの画面に相手の顔やらが映っていた。その中で、Cが言いたかったことは、第三子妊娠の報告だとわかった。「ほう」。その画面にまつりさまがちらりと映った。たぶんCのスマホの画面に一瞥(いちべつ)をくれたのだった。それは、いともつまらなさそうな表情だった。
(19)おさかなふたつください
朝食にシシャモの干物の焼いたのが二尾のせた小皿があった。まつりさまはそれをたいらげて、悦子に「おさかなふたつください」と言い、指でVサインして「2」を示された。言葉とジェスチャーのふたつを用いて、自分の要求を確かなものにされたのだった。
(20)ガチャポン事件
 
 
(続き)
(2)イエスはローマの法廷の十字架にかけられたが、それは帝国の治安を揺るがす人物という罪状であって、訴えたユダヤ人の認定した罪は、エホバの神を冒涜したという罪なのだから、本来ユダヤ人自身が石で打って殺してもよく、ガリラヤの領主ヘロデによって処刑してもよかったのだった。しかし、ユダヤ人もヘロデも、正直のところ、イエスの神にはかかわりたくなかったので、ユダヤの民衆が憎んでいるローマ帝国の法廷を使って、まんまと処刑させたのだ。

イエス自身が自らの意思で、罪びとの贖罪(しょくざい)のためという目的のために、十字架への道を歩まれたわけではない。これは重要な指摘である。イエスは、神エホバの声すなわち命令にまったく従われただけである。それ以上のことを推し量ることは、だたの哲学でしかない。

(3)すなわち、わたしたちは、イエスが自ら何かされたわけではなく、うちに聞こえるエホバの言葉(=命令)にまったく従われたこと、その結果を、わたしたちは福音書を通して読んでいるのにすぎない。では、宣教を推進したのは誰かということが想起されるが、それは、テオピロ、ルカ、聖母マリヤと女性たち、ペテロたち(無学な)使徒たち、それにパウロであろうとするのが自然であるが、その話の展開は別途行いたい。

(4)ただ、イエスが永遠の命を、すなわち天寿を、罪をかぶったことによって、まっとうできなかったことを、俗界からの視点ではなく聖界からの視点で確認しておきたい。

イエスは渡される夜、ゲッセマネの園で苦杯、すなわち霊的な汚物、また犯罪者の霊を飲まれた。すると、彼から聖霊は去ってしまった。彼は、霊的にではあるが、「あらゆる犯罪の犯人」となった。彼は罪びとの一人に数えられることになったが、ただの罪びとではなく、「代表者」のような立場になっていた。その彼を、律法は「中央の十字架にかける」という、身の毛のよだつ刑罰に処すのである。

それがとりもなおさず彼の負った十字架なのである。俗界すなわち、現実において、当日準備された十字架は三本だった。それらのうち、イエスに割り当てられたのは、「有名」だったバラバのための場所、「中央」に立てられたのである。そして、それは、とても偶然とは呼べない必然だったのである。

(5)苦杯(くはい)、その福音書の記述
これらの解き明かしの基(もとい)は、新約聖書であり、「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」である。本来、前者は後者を補完するものであったが、信仰的な理由で書き改められた箇所もある。


「マルコによる福音書」14章 ねむい理由
14-32さて、一同はゲッセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。14-33そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた。14-34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。14-35そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、14-36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。

「過越の食事」
ところで弟子たちは、その夜に限って、なぜ眠ったのであろう。わたしは、それは「最後の晩餐」のせいであると思うに至った。その時点では、その食事が「最後」かどうかは誰にもわからなかったはずである。あるいはマリヤさまは、ある種の「胸騒ぎ」のうちに、だたならぬものを感じておられたと思う。というのは、イエスが言われた食事は「過越の食事」であった。

それは、律法通りの日ではなく、むしろ「メニュー」である。「過越の食事」は、ご馳走(ちそう)である、粗食ではない。それは、エジプト脱出において幾日も砂漠を行進するためのスタミナ食、すなわち小羊の焼肉を食べたのである。弟子たちは、たらふく食べ、ワインも飲んだので、かんじんな時に「眠気(ねむけ)」をもよおしたのである。弟子たちは、このあと、何日も食事がのどを通らない日が続くのである。それがイエスのはからいであり、マリヤさまが心にとめられたことなのである。


「ルカによる福音書」22章 過越の食事(メニュー)は焼肉
22-7さて、過越の子羊をほふるべき除酵祭の日がきたので、22-8イエスはペテロとヨハネとを使いに出して言われた、「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。22-9彼らは言った、「どこに準備をしたらよいのですか」。

このような書き方がしてあるのは、「投宿している巡礼者の宿の主人に命じて過越(のメニュー)の食事の準備をさせなさい」ではリアルすぎるからであろう。


「マルコによる福音書」14章 罪(今を生きる人間の霊的汚物)を飲まされる情景
14-33そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた。14-34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。

14-35そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、14-36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。


(中略) 若者の正体(しょうたい)
14-50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。14-51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、14-52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。

ゲッセマネの現場にいてつぶさに見たのは状況から推してマルコ(裸で逃げた若者)であろう。弟子どもは眠っていたし、聖母たちは女であるから夜城壁を出て、ここには来れないからである。「ルカによる福音書」の記述は、このマルコの記憶が基になっていると思う。

著者の署名は「ある若者」
「ルカによる福音書」の署名は、カペナウムの百卒長とその僕(しもべ)であるが、「マルコによる福音書」の場合は、「裸で逃げて行った」若者である。彼こそは、マルコであり、イエスと弟子たちが宿泊している女主人の息子(むすこ)である。彼が、その場の目撃者なのである。

「ルカによる福音書」22章 苦杯
22-40いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。22-41そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、22-42「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。22-43そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。22-44イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
 
以下、2021/9/21に追記
「苦杯」の信仰的意味
このイエスの苦しみは、今を生きる人の、これまでイエスが出会い、罪をゆるした人々の霊的汚物の総決算であろう。普通の人間に他人の「罪」を意識し、それを飲むというようなことは想像もできない。そして、それはイエスがアロン家の者でなくてはならないということである。なぜなら、罪のゆるしは「ユダヤ人の律法」が根拠であり、イエスの存在はその律法が息づいている環境でなければならなかったのである。

ユダ族のイエスがアロン家の者である根拠は母マリヤの「処女受胎」である。そしてその証拠はルカによるイエスとその母マリヤの顔認証である。

マリヤがアロン家の姫であるとする根拠は、親戚のエリザベツが「アロン家の娘のひとり」と書かれていることによる。新約聖書の文書中、「アロン家」の記述があるのは「ルカによる福音書」だけである。

「いけにえ」
「苦杯」の次は、あがないの、犠牲となること。人の罪を負うことのできない獣(けもの)ではなく、人、アロン家の大祭司自身がその犠牲になること。

「あがなわれる者」
架けられた者を仰ぎ見ること。あがなわれるためには、その人は「架けられた者」を仰ぎ見る必要がある。無条件にあがなわれるわけではない。
 
苦杯の異端解釈
異端解釈(1)イエスも人であった
プロテスタント(反教皇の宗派)のほとんどは、イエスの十字架は「明日の十字架の苦しみ」を思ってであるとする。イエスも人の子であり、恐怖の十字架を思って慄(おのの)いたのである。それでこそ、人の弱みを知る「神の子」である。
 
異端解釈(2)神の試練の象徴
イエスの苦しみは神の与える「たえがたい試練」の象徴という解釈である。イエスはその初穂という捉(とら)えかたである。

武者小路実篤(著)「友情」 「神よ助け給え」
 
 
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ささくら宗の聖書   口語訳聖書の由緒
 
ページ制作者: (ささくら宗)聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」 初代代表者 笹倉正義
ささくら修道会・ささくら女子修道会
2016/5/24-28、30、2017/9/3、2018/1/28、2018/12/17、18、2019/3/23、24、3/26
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