(1)単一皇帝の治世 聖書が成立したのは4世紀、330年頃、単一皇帝コンスタンティヌスの統治下において、ニカイア公会議を経て編纂された、とされる。「単一皇帝」と書いたのは、それまではローマ帝国は東西に分割統治された時期があったことを強調するためである。 (2)教会組織はローマまで誕生 キリスト教は、ローマで成立した。宣教は、マリヤさまと奉仕の女性たち、それにペテロたちが加わり、資金、通訳など、元軍人クレオパの組織的支援の元で行われた。ペテロを初代教皇として、ピラミッド型組織のローマ教会が誕生した。神父の告悔の信徒に言う、「子よ、あなたの罪はゆるされた」に集約される、「狂気という罪」のあがないをとりなすミサ(儀式)の教会は、女性や奴隷たちの支持を受けて、たちまち帝国内に拡大していった。当時のローマ帝国は、合法的に存在した「奴隷階層」により成り立っていた。 (3)分割統治下の「 教会誕生の当初、100年余りは、全帝国内に自然に受け入れられたが、紀元200年ごろには、東方の統治下にあるエジプトのアレキサンドリヤにおいて変化が起きた。アレキサンドリヤは、「智の都」と讃えられた都市であった。その教会の聖職者たちは、無学の象徴とも言える「女と漁師」を敬うローマ教会の |
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ローマ帝国の「西と東」の聖母子 |
(4)東方ではイエスの母は「イシス」 以後、エジプトでは「ヨハネによる福音書」しか読み聞かされなくなったので、信徒に世代交代が起る頃には「マリヤさま」の名は完全に忘れられた。エジプトにはイシス女神の母子像が信仰されていたので、信徒はイエスさまの母を「イシス」に重ねたかも知れない。 |
(5)「智」の福音書ラッシュの困惑 だが、教会にとって思わぬ問題が起った。アレキサンドリヤは教会だけでなく、ラテン語やアラム語の書ける学者がわんさといたのである。ユダヤ人とも入魂な彼らは、こぞって自らの「智」と 「ヨハネによる福音書」の原書は、影が薄くなった。TV番組にあったように、司祭が、「これは読むな、これを読め」と言った言葉が現実味を帯びる。 アレキサンドリヤ教会としては黙認できない事態ではあるが、新たな福音書の作成は、自分たちがまいた種であるし、禁止命令を出す権限もない。どうにかならないものかと思案するばかりである。妙案のないまま、100年が過ぎた。 |
(6)単独皇帝誕生の朗報 そうした中、コンスタンティヌスが東西を統一して単独皇帝になった。コンスタンティヌスはミラノにおいて「キリスト教が存在する権利は、他の宗教と同じであるべきだ」との見解を示し、「キリスト教禁止令」を上書きした。「キリスト教禁止令」の勅令は取り消すことができないので、「いいんじゃないの」と上書きしたのである。 「キリスト教」は禁止令には関係なく拡大していたが、表立った「聖堂」などは建てられずにいた。事実上の解禁で、聖堂の建立や、街角での宣教が可能になった。 アレキサンドリヤ教会は、このキリスト教に好意的な皇帝に目をつけた。そして、皇帝が退廃したローマに代わる新しい都の候補地を探していることを知った。アレキサンドリヤ教会は、ヨーロッパ大陸の最東端にあたる漁村「ビザンチウム村」を提案した。皇帝は、その「地図」と「地形図」とを見て、大いに心を動かした。 そこで、アレキサンドリヤ教会は、その対岸にあるアジア(今のトルコ)側の最西端に位置する「アカイア」の町で、皇帝主導での、キリスト教会の「公会議」の開催を提案した。もちろん、その主目的は、ビザンチウムの視察と、造成の督励にあった。 キリスト教側、とりもなおさずアレキサンドリヤ教会側にとっては、「聖書」の文書が皇帝の命令で決定されるメリットとなるのである。それらの文書の原案はすでにできている。ローマからの使節団にも確認してもあれば、ローマ司教すなわち教皇も依存はあるまい。 |
(7)「聖書」以外の福音書の焼却処分 アレキサンドリヤ市内にあふれていた、あまたの「福音書」は皇帝の命令として焼却処分できる。これで「悩みの福音書」の宿願が解消する。枕を高くして眠れる。アレキサンドリヤ市内は大騒ぎになったが、ほとんどは広場で焼かれた。一部の文書は壷にいれ、ナイル川の上流などの洞窟に隠された。 |
(8)ローマ教会の場合 「智」のアレキサンドリヤとは違い、「パンとサーカス」のローマではラテン語や旧約聖書に精通するユダヤ人がいないため、「ルカによる福音書」、「マルコによる福音書」、「マタイによる福音書」に競えるような福音書の作成など重いも及ばないことだった。 |
(5)「パンとサーカス」のローマ 西方のローマの統治は、ローマ市民に「パンとサーカス」、「公衆浴場」を提供して、「政局」の安定を図っていたが、市民は堕落していた。 |
(6)「智」のアレキサンドリヤ エジプトには、クレオパトラの自害でローマの属州となった、ギリシャゆかりのプトレマイオ王朝があった。その首都がアレキサンドリヤであり、世界に冠する図書館を有し、「智の都」と讃えられた。市民もその影響を受けて「智」を楽しみとした。ここに「福音書」乱発の温床があった。 |
「映画」西方と東方のイメージ |
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ローマ帝国「西方」パンとサーカス拡大図 |
136年、ローマは「パンとサーカス」、それに「公衆浴場」をローマ市民に提供して、政治の安定を図っていた。画像は、それをテーマにした映画「テルマエ・ロマエ」のもの。アンテオケにもそれはあった。 |
映画「ローマ帝国の滅亡」 |
映画「グラディエーター」 |
ローマ帝国「東方」議論と哲学の広場拡大図 |
395年、コンスタンティヌスによって統一されたローマ帝国は、再び東西に分割統治されることになった。この映画は、その「東方」であるエジプトのアレキサンドリヤにある図書館が舞台である。時代は392年、映画の現代は「AGORA(広場)」である。AGORAはギリシャ文化を示し、市民が哲学を論じたり、教えたりする公共の場である。図書館の中にも広場はあった。そのギリシャ的広場に「キリスト教」が土足で入った。図書館長の娘は最後の哲学者となった。 |
「聖書が制定の動機と目的」 |
福音書はなぜか |
気づき「聖書の成り立ち」について |
聖書はローマ教会ではなく、エジプトのアレキサンドリヤ主導で編纂された、というのが「今さら」の気付きとなった。それは325年のニカイア公会議が、統一皇帝コンスタンティヌスの臨席のもと、アジアのニカイア(現トルコ)で行われたが、参加した大多数は「東方」の聖職者たちであり、「西方」のローマ教会からは使節団が参加したというものであった。 皇帝の「キリスト教」のお気に入りは、ローマではなく、アレキサンドリヤの「智」だったのである。ニカイアは、アジア側だが、ヨーロッパの東端にはビザンチウムというギリシャ名の漁村があった。皇帝は、その地を拡張・造成し、新しい都を夢見たのである。その造成された都の名は「ビザンツ」ではなく、皇帝の名を冠した「コンスタンティノープル」となった。現在の名前は、トルコ共和国の「イスタンブール」である。 アレキサンドリヤの聖職者は、その時、新約聖書の原案を会議に持ち込んだのである。その最大の目的は、それら選定文書以外のものは、全て焼却すべしという、勅令をいただくことであった。アレキサンドリヤはローマ教会の「ルカによる福音書」に対抗して、「ヨハネによる福音書」を作ったが、それに刺激されて、福音書の作成ブームが起ったのである。それはキリスト教を茶化すことに他ならなかったから、アレキサンドリヤの聖職者はあわてたのである。 エジプトのナイル川上流で、壷に入った古文書が見つかって大騒ぎしたが、それらの文書は「焼却」から逃れるためのものだったのである。2023/2/21 |
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マリヤさま否定の「ヨハネによる福音書」の成り立ちの考察、 325年、「らい病」の「重い皮膚病」よりもっとひどいなされよう。 |
ニカイア会議 |
ここに来てふとニカイア会議のことを思い出した。TV番組で見たもののひとつに「ニカイア会議」のことがあった。その時は日本語ナレーションを「ニカエア公会議」と聞き取っていた。そして今どきのWeb検索をすると、その場所とメンバーの記事があった。果たして、会議は「東方」の主導で行われたことを確認した。思い違いがあった。2023/2/18 |
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「わたしたちの聖書」 |
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オリジナル教会の権能:「あなたの思うがままに作成してよい」 ページ制作者 (ささくら宗)聖母マリヤ福音教会代表 笹倉正義 2023/3/3、3/7 |
(ささくら修道会規約)当会の用いる聖書は、口語訳聖書、文語体聖書、バルバロ聖書差分の3つに限定する。これ以外の、聖書の引用は異端行為として厳禁される。日本語以外の聖書については、文語体聖書の内容に準じるものとする。異端文例(Today's English Version)世事に迎合した改編文章など異端以外の何ものでもない。(異端:=故意に対立すること) |
ささくら修道会の指定聖書:「日本聖書協会 口語訳聖書」に準拠 新約聖書(1954年改訳) 旧約聖書(1955年改訳) バルバロ聖書(旧約差分) |
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十字架の奥義:狂気 |
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