まさよし「あなたの職業(しょくぎょう)は何か」

 
創世記
46-33もしパロがあなたがたを召して、『あなたがたの職業は何か』と言われたら、46-34『しもべらは幼い時から、ずっと家畜の牧者です。われわれも、われわれの先祖もそうです』と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼いはすべて、エジプトびとの忌む者だからです」。

47-3パロはヨセフの兄弟たちに言った、「あなたがたの職業は何か」。彼らはパロに言った、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」。


(1)職業以外の取組み「説明書」の作成
わたしはこれまで、いくつか「説明書」を作ってきたが、それらは職業なり収入なりには結びつかなかった。職業は別にあった。いま「 キリスト教」の説明書を作っているが、これもまた、同じである。しかし、違うところがある。それは、動機が、自分ではそれとわからないところから出ていることなのだ。

(2)キリスト教の説明書
最初は、四つの福音書の違いを、表にしてみることから出発した。そして、「ルカによる福音書」の特徴である、献呈の言葉に注目した。書は「テオピロ閣下」のために書かれた「報告書」である。そして、何気(なにげ)ないWeb検索で、その名が匿名であるとのヒントを得て、ほぼ瞬間的に、その閣下とは、福音書中のカペナウムの百卒長(ひゃくそつちょう)だとわかったのだった。

だとすれば、その記者であり、その献呈者こそは、彼の僕(しもべ)に違いなく、とりもなおさずルカだとわかる。そして、その福音書が「即時報道」であることも理解できる。聖母マリヤにヒアリングしたのは彼であるし、その基(もとい)は、「これほどの信仰はイスラエルでも見たことがない」と、イエスにほめられた主人の信仰にある。

そして、わたしの受けたインスピレーションこそが、ほんとうの、「説明書」作成の道へと導かれる入口だったのだ。わたしは、何者かによって、としか言いようがないが、かつて思いもしなかったことを、書き記(しる)すために、それらを知ることを許された。それは、これを作るたかだか9年の歴程を見れば、歴然とする。

当初は、どこの教会にも、相談といったものをするには、その余地がなかった。「説明書」の完成目標、そういったものはなかった。だから、相談のしようがない。交番に行って、おまわりさんに、「わたしはどちらに行ったらよいのでしょう」と聞くようなものだ。

(3)作成のよりどころ「オリジナル教会」
そういうわけだから、わたしは説明書作成を許可する権威、「(ささくら)聖母マリヤ福音教会」を設立したのだった。だが、その目的は、説明書作成に限られ、わたしが導かれる「根拠」の出所(でどころ)に落ちつく。「オリジナル教会」というのは、「プロテスタント教会」でも「カトリック教会」でもないな、と、その時は思ったからの略称だった。わたしは キリスト教の歴史を聞かされてはいなかった。実のところ、 キリスト教については何も知らなかった。だから、普通に考えて、その説明書を作ることなど、あり得ないことなのだった。

(4)カトリック教会が視野に
説明書作成の途中、藤沢道郎(ふじさわみちお)さんの著書に出会った。それはたぶん、アマゾンの、おすすめ表示で出た書籍のひとつだと思う。「イタリヤの解体と再統合」を主題とした歴史物語だった。これを読んだことが、ローマ教会を身近に感じるに至った主原因だと思う。そして、これをあたかも「使徒行伝(しとぎょうでん)」の続編ととらえたのだった。

その歴史物語に登場する人物を、インターネットから取得した、教皇名一覧表に配置してみた。また、不思議なことに、わたしと悦子とは、その登場人物ゆかりのイタリヤの都市を訪ねる観光旅行をしたのだった。それもまた、思いもかけないことだった。

(5)悪口(わるぐち)葛藤(かっとう)
さて、わたしは、自(みずか)らのホームページにおいて、ダビンチとダンテのお二人(ふたり)に悪口(あっこう)を述べている。また、コーランを読みもしないで、「イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教よりも新しく、両方を含んでいる」などと言う連中にたいしても、「いいかげんにしろ」、という気持ちがある。それらは、ローマ・ キリスト教会とその歴史を知らないで、知ったかぶりをしているのである。
 
ダンテとダビンチを担ぐ神輿(みこし)
パスワードの気持ち
 
(6)根底の悲しみ、真の理解者はわたし
ダンテ、ダビンチ、イスラム、それらは、聖母マリヤなり、教皇すなわちローマ教会を貶(おとし)めるために、異端活動家によって利用されている。わたしの攻撃目標は、それら異端者の吐く、「うそ」に設定されている。ダンテの不遇の悲しみも、レオナルドのそれも、霊界における真の理解者はむしろわたしである。そもそも、わたしは、彼ら本人を攻撃するつもりはないし、その理由も無い。わたしは生前(せいぜん)の彼らを知らないのだから。

(7)わたしは今もって労働者
わたしは今も働いて、賃金をもらっているが、それは生活の基盤ではない。節約すれば、働かなくて良いのである。しかし、辞める理由もないのである。「説明書」の作成を継続するにあたって、障害にはならないからであり、健康である限り働くことは、「誓い」だったから。

(8)キリスト教の(かなめ)は教皇(Papa)
キリスト教の説明書作成が進展する中、具体化する中、いつの間にか「キリスト教会」の説明書になっていることに気づいた。「キリスト教」という表題は、漠としていて、説明書にはなじまないのだった。説明書は、機能を理解し、行動を促がすものでなければ、読む価値はない。読むもの誰しも、製品の「概念」などではなく、その製品の操作方法を知りたいものなのだから。

読む人の何パーセントかが、「カトリック教会に行ってみよう」という行動を起こすものであってこそ、この説明書の存在に意味があるだろう。

そういうわけだから、説明書完成のあかつき、それをキリスト教思想の統合者、教皇に認めてもらい、布教を目的とした修道会を創設し、あたらしい活動に入る道を拓こうとする。

今までは、説明書作成が職業に結びついたことはない。だが、いつでもそれが職業になった場合のことは考えていた。結びつかなくて当たり前、結びついた時のことを考えていればよいのだ、とそう思う。まれなる望みを望みとするのである。

(9)忖度(そんたく)無用の環境
そういうわけで、今は何にも属していないわたしは、誰にも忖度する必要がなく、説明書作成に専念できているのである。「あなたの職業は何か」と問われたら、「分譲マンションの管理人です」と、今は答える。
 
 
受注者: 笹倉正義
2018/12/31、2019/1/1、2、3、5、27、28、2019/2/16、17、2/20(悪口を分離)
2020/7/21、2021/1/16(java文の除去)
 
Papaの日本語は「教皇」
今日、このページに「法王」と書いてるのが目についた。昨年、2019年11月に教皇の来日にあたり、マスコミはカトリック教会で用いている「教皇」に統一するということだった。このサイトでは、その日の気分で教皇と法王を使い分けた。わたしにとって、教皇は強いイメージ、法王はやさしいイメージがある。それで、そのように決まったと知ったあとからは、教皇を使うがそれ以前のものは、気分を反映しているのにすぎないので、そのままにしておく。どちらもPapaにかわりはない。2020/2/2